第二十
小田原オダワラ大久保変遷ヘンセン
小田原藩主
 
初代ショダイ 小田原藩主
 
小田原オダワラ藩主 4マン5000イシ
チュウ(忠員 ナガ男 マタは オトコ
ただよ(1532〜1594天文テンモンモト文禄ブンロク3)
アタラ十郎ジュウロウ七郎シチロウミギ衛門エモン
 
大久保オオクボ忠世は大久保オオクボ忠員の長男として天文元年(1532)
三河ミカワ上和田カミワダにてハハ三条西氏より生まれる。
11サイ徳川トクガワ家康イエヤス近習キンジュウ登用トウヨウされる。
初陣ウイジン十五ジュウゴサイトキ家康イエヤスチチ松平マツダイラ広忠ヒロタダが三河上野城
酒井サカイ忠尚タダナオめたトキシタガった
ツギ弘治コウジ元年ガンネン(1555)23サイトキ蟹江カニエシロ攻撃で先鋒を
務めチチ忠員とオトウト忠佐とトモに蟹江七本槍と讃えられた
その永禄エイロク六年ロクネン(1563)には三河ミカワ一向イッコウ一揆イッキ上和田カミワダ
死守し次の年の1ガツにはテキられながらも土呂、
針崎の一揆勢と2月の和議まで戦い通した
その
 
小田原藩主
ハハ  近藤コンドウ幸正ユキマサ オンナ
二代2ダイ 小田原藩主
ジュウシタ ショウスケ 相模サガミカミ
小田原オダワラ藩主 6マン5000イシ
チュウリン(忠世 長男)
ただちか(1553〜1628天文テンモン22〜寛永カンエイ5)
千丸、新十郎、ドウシロ
 
11サイトキ家康イエヤス近習キンジュウ登用トウヨウされる 
その三方ミカタヶ原、カナサキ姉川アネガワ一乗谷イチジョウダニ信濃シナノ、小牧長久手
連戦レンセン家康イエヤス関東カントウ入部ニュウブサイして、武蔵ムサシ羽生ハブ2万石マンゴクリョウする
関が原(上田)、大阪冬、大阪夏をへたアト1593ネン文禄ブンロクネン)に
徳川トクガワ秀忠ヒデタダ家老カロウとなる、文禄三年(1594年)41才で
父忠世の鬼籍に伴い家督を相続し、相模小田原四万石を領した
 
徳川トクガワ幕府バクフ金山キンザン奉行ブギョウ 
旧武田猿楽師 大久保長安
幕府バクフ背任ハイニン事件発覚ハッカク
美濃加納藩主
 
美濃ミノ加納カノウ藩主ハンシュ 2万石マンゴク+4マン5センコク
チュウツネ(忠隣 長男)
ただつね(1580〜1611)
 
武蔵騎西藩主
 
武蔵ムサシ騎西キサイ 2万石マンゴク
チュウショク(忠常 長男)
(1604〜1670)
 
播磨明石藩主
 
播磨明石 7万石
チュウショク(忠常 長男)
(1604〜1670)
 
肥前唐津藩主
 
肥前唐津 8万3セン
チュウショク(忠常 長男)
(1604〜1670)
 
下総佐倉藩主
 
下総佐倉 8万3千石
チュウアサオシタカ 男忠職 養子ヨウシ
ただとも(1632〜1712)
下総佐倉よりウツフウ 侍従⇒老中
ハンに復帰、
元禄ゲンロクネン(1694ネン月に1万石加増
老中ロウジュウタカラ五年5ネン元禄ゲンロク十一年11ネン
元禄十一年10ガツ隠居インキョ家督カトク老中ロウジュウショク
を忠増に譲る
 
大久保長安事件赦免解決
全国ゼンコク大久保オオクボ各地カクチにて
中興チュウコウゾウ復帰フッキ
小田原藩主
 
三代3ダイ 小田原藩主
従四位下 加賀守 
小田原オダワラ 10マン3000イシ+1万石
チュウアサオシタカ 男忠職 養子ヨウシ
ただとも(1632〜1712)
下総佐倉よりウツフウ 侍従⇒老中
貞享ジョウキョウ三年3ネン(1686ネン)1ガツ小田原オダワラ
ハンに復帰、
元禄ゲンロクネン(1694ネン月に1万石加増
老中ロウジュウタカラ五年5ネン元禄ゲンロク十一年11ネン
元禄十一年10ガツ隠居インキョ家督カトク老中ロウジュウショク
を忠増に譲る
 
以後イゴ11ダイ幕末バクマツ明治メイジまでツヅ