第二十二章大久保彦左衛門 |
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大久保彦左衛門 |
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1560年〜1639年 |
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大久保彦左衛門について |
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生まれは三河です、十二人兄弟の七男でした |
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父は徳川譜代の大久保忠員、母は信州小坂氏娘である |
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通称は平助、名は忠雄、後に忠教、末に彦左衛門となる |
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戦歴 |
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彼が12歳の時に甲斐の武田信玄が三河に攻め込み |
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三方ヶ原にて家康を破ると、天下は武田家に大いに傾いた |
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しかし次の年に駒場にて信玄が病没してしまい、滅亡寸前 |
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の徳川家は最期に残った城一つの浜松城で生き延びた |
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平助は天正3年1575年に元服し、大久保忠雄と名乗る |
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同年に、かぞえ16才で徳川家康に仕える、翌天正4年 |
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1576年17才の時、兄大久保忠世に従い、対武田戦、 |
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遠江乾の戦にて初陣を飾る、同年9月には高天神城攻略戦 |
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に参加し、これを攻囲し落城させる、高天神城といえば難 |
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攻不落の平城で武田信玄も、力攻めによる被害を恐れ、 |
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無理攻めをせず引き上げた名城で、武田勝頼の時に2万3 |
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千の内、兵7千の犠牲を払いやっと落とした城である、 |
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だが当時の高天神城には常時、守備兵が約6千近くおり |
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難攻不落の平城といわれていた為であり、すでに天正3年 |
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1575年5月長篠設楽が原の戦いにて武田の主な勇将は |
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全てといってよいほど戦死しており、徳川5千武田千五百 |
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の遠江乾の戦も、徳川1万2千、守備兵約五百の高天神 |
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城攻略戦も数で押し切れるほど、徳川にとっては簡単な戦 |
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であった、そんな戦で彦左衛門は手柄を立てたのである |
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23歳の天正10年1582年1月武田掃討戦には武田家 |
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が滅び、同年6月に織田信長が本能寺にて倒れると、徳川 |
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範図拡大のため狩場と化した甲斐、信濃を攻めに攻め、 |
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武田の残党狩りに邁進した、しかし11年信濃佐久地方平 |
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定戦までが勝ち戦であり、13年信濃上田城攻撃は失敗に |
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終わった、豊臣秀吉が台頭して、家康を臣従させると範図 |
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拡大も終了し、天正18年徳川家康が関東に移封されると |
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大久保忠世の長子忠隣に従い相模小田原の所領の内、武蔵 |
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埼玉郡内で二千石を与えられた、これは彦左衛門が大久保 |
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衆の中で、たいした戦功を上げられなかった証拠と思われ |
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る、41歳の1600年に関が原の戦いでは家康の近習と |
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して従ったが、高齢のため重要な役割であるはずの、幌衆 |
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ではなかった、しかし豊臣家臣の東軍が豊臣家臣の西軍、 |
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石田三成を破り勝利を収めたため、その後も家康の近習を |
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勤めたが他の近習に加増された時でも、決して加増はされ |
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なかった、55歳の1614年には大阪冬夏の陣で豊臣家 |
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が滅んだ。大久保彦左衛門はそんな徳川家の創世記を経験 |
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したその他大勢の戦国武将の一人だったのです。 |
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三河物語はそんな大久保彦左衛門の遺した、自分のための |
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自己満足を賛美して他人をねたみ、自分で書いた馬鹿物語 |
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です、彦左衛門が遺した三河物語と河竹黙阿弥の書いた |
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歌舞伎の一心太助に登場する大久保彦左衛門を |
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混同して覚えている方々も多々おられるようです。 |
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三河物語は徳川家康(天文11年1542年〜元和2年1616年) |
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が天下を平定した後、徳川家のために働いた槍働きの武士 |
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が上司になれず、左遷されて行く中で、徳川家を裏切った |
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返り忠の文官が取り立てられ、出世する姿を嫉んだ文書で |
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終始されている物語です、自分の都合で書かれた文章で、 |
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あるため、たしかに一部は史実ですが正しい歴史の文献 |
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としては、まったく取り上げられない私文書です。 |
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歌舞伎の一心太助は芝居のための台本であり三代将軍、家 |
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光が文句ばかりで、誰彼となく当り散らす老害の彦左衛門 |
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を見て、ほおっておけと言った言葉を、彦左衛門は何を勘 |
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違いしたのか、将軍が彦左衛門の意見を聞くように言った |
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と、彦左衛門自身が触れ回ったのを、民衆が面白可笑しく |
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噂した事を台本に取り入れ、架空の登場人物の一心太助と |
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彦左衛門のやりとりの物語である、その後、講談や小説に |
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尾鰭がついて取り上げられたため有名になったが、内容は |
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まったくの嘘であり、それを信じて吹聴している方達に、 |
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大久保彦左衛門同様 |
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大久保を名乗る資格も語る資格もない。 |
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