第十5
大久保家の菩提寺
江戸に在ったテラ
世田谷区セタガヤク三軒サンゲン茶屋チャヤ-教学院キョウガクイン      烏山大久保氏
教学院は烏山カラスヤマ大久保家オオクボケ菩提寺ボダイジである
天台宗竹園山最勝寺の流れを汲み慶長九年(1604年)創建
玄応和尚が開基となり江戸城内紅葉山に建てられ、明治四十一年
(1908年)に青山から現在ゲンザイ場所バショウツった、本尊ホンゾンサマ阿弥陀アミダ如来ニョライ
で恵心僧都の作と伝えられる。
北区キタク田畑-大久寺               小田原大久保氏
小田原オダワラダイヒサテラワケデラであり、江戸エドにおいての
小田原大久保家菩提寺であった。
場所バショ日枝ヒエ神社ジンジャ北側キタガワ位置イチする
このテラくとグチ正面ショウメンダイモントビラ大久保オオクボ家紋カモンられる
元々大久寺は大久保オオクボ菩提寺ボダイジなのに、なぜ石川家と大久保オオクボダイヒサシテラマツ
れているのか、それは、徳川トクガワツカえた石川イシカワ数正カズマサ叔父オジ石川家イシカワケ成が慶長14年
(1609年)に死居したトキテキがまだ幼少ヨウショウにあり家督カトクげないため、
徳川トクガワ家康の命により大久保忠隣の次男忠総を養子に受けた(チチは大久保忠隣
母は石川家成の娘。徳川秀忠より名前の一字を拝領し、「忠総」を名のる)
その石川イシカワチュウソウにより分寺された大久寺は、石川家と大久保両家リョウケ菩提寺ボダイジとなった。
白金-立行寺
大久保オオクボチュウキョウ彦左衛門ヒコザエモン)の菩提寺ボダイジである
江戸エド以外イガイテラ
ヌマ-ミョウツタテラ
法華宗ホッケシュウ岡宮オカミヤヒカリチョウテラ末寺マツジで、慶長ケイチョウ九年9ネン(1604ネン創建ソウケンである
開基カイキテンであり俗名ゾクミョウ市川イチカワ七郎シチロウ左衛門サエモン家吉イエヨシとゆう
当時トウジ三枚サンマイキョウ城主ジョウシュ大久保オオクボオサミギ衛門エモンチュウ法華経ホッケキョウフカ
信心し当寺を沼津
ヌマ大久保家オオクボケ提寺ボダイジとした
小田原オダワラ-大久
小田原オダワラ大久保オオクボウジ
大久保オオクボチュウチュウシュン、忠リン、忠ジョウ忠、忠カツ
ダイヒサ大久保オオクボ小田原オダワラ)と石川イシカワ菩提寺ボダイジで、
天正十八年(1590年)創建である
寺名は大久保の名前から命名されています、
石川家はその初代が大久保忠総
(大久保忠燐の石川姓)のため此処ココ菩提寺ボダイジとなっている
開山カイザン法華宗ホッケシュウニチエイにより、開基カイキ大久保オオクボチュウである
しかし忠世の遺骸イガイ一部イチブ理由リユウ不明フメイであるが
京都府上京区寺町通本膳寺に納められている
巣鴨スガモ-ホンミョウ
本妙寺前景
名 称:徳栄山 總持院 本妙寺
 所在地:東京都豊島区巣鴨5-35-6
 創 立:元亀二年(1572年)
 本 尊:十界勧請大曼陀羅
 開 山:智 存 院 日 慶
 開 基:久世三左衛門広宣・
     大久保五郎右衛門忠俊・
     大久保五郎右衛門忠勝・
     大久保五郎右衛門康忠・
     阿部四郎兵衛忠政 本堂前景
当山は、山号を徳栄山と称す。
これは、徳川家が栄えるようにとの願いでつけられたものである。
 ご承知のように徳川家発祥の地は三州岡崎(現在の愛知県岡崎市)である。
岡崎の近郊に法華宗の海雲山長福寺という古刹がある。
 長福寺の檀徒で徳川家に仕えた久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、
大久保忠俊、阿部忠政等が、元亀二年(一五七二)家康公が岡崎から
遠州曳馬(現在の浜松市)へ入城に際し、智存院日慶上人に
お願いして同地に創立された寺が、当山である。
 天正18年(1590)家康公が関東奉行として江戸入城に際して、
当山も久世家、大久保家等と共に江戸へ移転した。
 当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い
飯田町、牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている。
 二代目以降の住職もまた学徳高く前記久世、大久保、阿部等幕臣の
帰依を得てその外護により伽藍も整備されたが、
寛永13年(1636)出火のため全焼した。
 その後、久世大和守広之の尽力により本郷丸山に替地をうけ、
 約6000坪の境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、
山門等完備し、塔頭寺院も十二と七堂伽藍の整った大寺院として復興した。
 しかるに僅か数年後の明暦三年(1657)正月十八日、
明暦の大火によって悉く焼失した。
 しかし、大火から3年後に、客殿、庫裏を、6年後には本堂を復興した。
 明治43年(1910)現在地へ移転するまで本郷丸山にあった。
 現在も文京区本郷五丁目付近に『本妙寺坂』なる地名が残されている。