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駿河スルガヌマハン大久保家オオクボケ
チュウヒラ 忠次チュウジ(忠茂  チュウイン(忠茂 三男サンナン
ただつぐ(?〜? ただかず(1511〜1582)
大久保オオクボチュウトシ(忠茂 ナガ男) ヒダリ衛門エモン 甚四郎ジンシロウ
ただとし(1499〜1581) 次郎ジロウ タイ右衛門
シン八郎ハチロウ
五郎ゴロウミギ衛門エモン
改称カイショウ 宇津ウツ
総称ソウショウ 大久保オオクボ
チュウ(忠員 二男)
ただすけ
1538〜1613天文テンモン7〜慶長ケイチョウ18
チュウカツ 八郎ハチロウオサム右衛門、ミチ
ただかつ(?〜?) 松平マツダイラ広忠ヒロタダ家康イエヤスチチ)のダイからツカえた
忠員の二男、忠世の弟、武辺者で典型
テキ三河ミカワ武士ブシ今川時代より松平家の全
て戦いに参加した諸所の戦いに参加で、
忠政タダマサ とくに武田を破った長篠の戦い(設楽が
原の戦い)では兄の殿軍をつとめた、
元亀ゲンキ三年3ネン(1572ネン)の三方サンポウハラタタカ
では・・・・・・・・・・・・・
忠吉タダヨシ 慶長ケイチョウ六年6ネン(1601ネン)に駿河スルガ沼津に加
増転封となる。
駿河スルガヌマハンシュなるもテキなくイエ改易カイエキ
1601〜1613慶長ケイチョウ6ネン〜慶長18年
チュウトヨ