第五章
当家トウケ烏山カラスヤマハン(大久保家)
シロメイ     烏山カラスヤマジョウ  山城といっても小高い丘のような感をうける、
城郭     山城ヤマジロ 川を引き込み天然の堀としているが、川の上部を
城式     クルワシキ 堰きとめ本流に水をモドすと浅い空堀となってしま
規模キボ     80ヘクタ−ル う、城郭としては良く考えて縄張りされた守り安
築城チクジョウシャ   那須ナス沢村サワムラ資重シシゲ く攻めがたい城であるが城に籠れる兵が約300
築城チクジョウ     応永オウエイ25ネン と少ないため2000の兵にかこまれたら落城は
廃城ハイジョウ     明治メイジ 5年末ネンマツ 必至となるであろう、小規模で脆弱な城である、
クルワ      3箇所カショ 城下町は約三百強戸の農家と20戸の商家その他鍛
城門ジョウモン     2箇所カショ 冶屋10戸神社仏閣10そして60の武家屋敷から成り
石垣イシガキ      人口は2千人規模と思われる、全領内4千戸2万
土塁ドルイ      ジャクの規模である。
ミズホリ空堀カラホリ  有り
テンコンイノチ ハン概観ガイカン
アマノコヤネノミコト  烏山藩は、下野国(栃木県)郡那須烏山周辺を
領有した譜代小藩である(初期は外様藩)天正十
藤原鎌足 かまたり 九年1591ネン 武蔵国忍城主(行田市)成田氏長は
関白秀吉から3万7000石を与えられ入部した
藤原トウ フヒト 成田ナリタは氏長のあと、弟長忠が継いだが、長忠没
後の元和二年(1616)継嗣ケイシ問題モンダイで家中内紛し
藤原フサマエ ふささき 2万7000石へ滅封となった。そして次男氏宗
が遺領を相続したが、再び家督争いが起こり、成
藤原シンタテ  まだて 田氏は改易となった。
 元和九年(1623)松下重綱が常陸国小張か
藤原ウチ麻呂マロ なまろ ら2マン800石で入封したが、寛永四年(162
7)陸奥国二本松へ移封となった。
藤原フユ  ふひろ いで下野シモツケコクの真岡から堀親良が2万5000石
で入封してきた。堀氏は、オヤリョウオヤマサ2代在封
藤原ナガ良 ながよし し、領内で検地を実施し、三の丸建設や登城道の
新設など城郭ジョウカク整備を行った。
藤原良房 よりふさ 寛文十二年(1672)オヤマサ信濃シナノコク飯田イイダへ転封
したあと板倉重矩が5万石でニュウフウしてきた。ジュウノリ
藤原基経 もとつね は、京都所司代や老中を勤めた幕府の重臣で以降イコウ
、烏山藩は譜代大名領有の地となった。
こうして外様藩から譜代小藩に代わったのである
板倉氏は重矩・重種ダイの間に家臣の地方知行制
の廃止や村請制の確立、城下の区画整理など藩政
の基礎固めを行った。天和元年(1681)重種
が武蔵国岩槻へ転封したあと、那須資弥が二万石
で旧領に復帰した。しかし、貞キョウ四年ヨネン(1687
藤原チュウヒラ大久保オオクボ先祖センゾ )、資弥の養子資徳が遺領を継ぐや継嗣問題が起
た。那須氏除封後、幕府の奏者番を勤め、河内・
藤原スケ もろすけ 山城・摂津国内で三万石を領知する永井直敬が同
粟田関白 格で入封した。元禄15年(1702)、浅野家
 藤原道兼後裔 藤原イエ かねいえ が断絶したため直敬は播磨国赤穂へ転封となった
が、代わって上総国大多喜から若年寄の稲垣重富
藤原ミチ兼 みちかね が2万5000石で入封してきた稲垣氏は重富・
昭賢と二代在封し、享保十トシ(1725)志摩シマクニ
正二位 中納言 藤原タカ かねたか 鳥羽へ移封となった、そして、これを受け、近江
国などで1万5000石を領知する若年寄の大久
正四位下 隠岐守 藤原兼フサ かねふさ タモツ常春ツネハル二万石ニマンゴクで入封してきた。享保十三年(1
728)、常春は、老中に就任シュウニンし、役料として相
藤原兼ナカ かねなか 模国内で一万石の加増を得るが、以降、三万石の
大久保家が烏山藩主として定着し、明治維新に至
宇都宮城(摩)主 藤原ソウエン むねまど るのである。常春の後チュウタネチュウキョウチュウチュウ
忠保・忠美・忠順と八代続いた。この間、忠胤・
下野シモツケ 八田ハッタカンカミ 宇都宮ムネ綱むねつな 忠卿治世の寛延・明和期頃から、城付領において
農村荒廃が進行した忠喜の安永・天明期頃になる
武者所 宇都宮左衛門尉 宇都宮ウツノミヤアサツナともつな と荒廃は一段と深刻し、藩財政の窮追化が明ら
かとなり、財政再建政策がとられていった。
宇都宮ウツノミヤゴウツナわざつな 忠成の代となって、文化・文政の藩政改革をみ、
農村復興政策が展開された。そして、忠保の天保
左兵衛尉 尾張オワリカミ 宇都宮ナリツナなりつな 期、農民の激しい闘争に対応する形で二宮ニノミヤ尊徳ソントク
小田原から招き、尊徳仕法導入という藩政の転換
宇都宮検校ケンギョウ 宇都宮ライツナよりつな が図られた。窮民救済、荒地復興フッコウ財政ザイセイ再建サイケンを柱
 弥三郎 とした報徳仕法は最後まで分度の確立カクリツをみぬまま
改革は停滞した。明治四年に廃藩となり、烏山カラスヤマケン
位下 下野シモツケカミ 宇都宮タイツナやすつな 、そして同年、宇都宮県へ統合された。
宇都宮カゲルツナ かげつな
    宇都宮泰宗 やすむね(?〜?)
宇都宮モトフジ もとふじ
宇都宮タイムネ やすむね
宇都宮氏族シゾク
ウエ 下野シモツケカミ 宇都宮サダツナ さだつな         宇津左衛 三河守
       宇都宮時綱 ときつな(?〜?)
治部ハルベ大輔ダイスケ 下野シモツケカミ 宇都宮コウツナ きみつな
南朝ナンチョウ新田ニッタ義貞ヨシサダ家臣カシン 宇都宮タイフジやすふじ(1302〜?)
美濃ミノカン 新田義貞が鎌倉カマクラめに失敗シッパイ越前エチゼン藤島フジシマにて
戦死後義貞のオトウト脇屋ワキヤスケトモに美濃に
転戦テンセンし尾張にて脇屋義助とワカ三河ミカワ
落ち延び、三河国和田ワダゴウ上和田、妙国寺前
に移り住む。
宇都宮タイツナ 五郎ゴロウ左衛門やすつな(?〜?)
       宇都宮泰宗 やすむね(?〜?)
宇都宮セイから タイミチ ウチ やすみち(?〜?)
宇津ウツカイショウ        宇都宮道意 みちおき(?〜?)
三河ミカワ松平マツダイラゴウ 宇津泰マサ やすまさ(?〜?)
       宇津道昌  みちまさ(?〜?)
宇津マサヒラ まさひら(?〜?)
       宇津常善  つねよし(?〜?)
イチ郷氏ゴウシ
宇津マサチュウ まさただ(?〜?)
松平信光家臣となる 家督を宇津忠与に譲り資産統一による家力の増化
宇津チュウ ただよ(?〜?)
宇津セイから
大久保オオクボカイショウ 大久保オオクボチュウシゲ ただしげ(?〜?)
大久保オオクボチュウトシ(忠茂 ナガ男)剃髪テイハツツネミナモト 忠次チュウジ(忠茂 男) チュウイン(忠茂 三男サンナン チュウヒサ
ただとし(1499〜1581) ただつぐ(?〜?) ただかず(1511〜1582) ただひさ(?〜?)
シン八郎ハチロウ ヒダリ衛門エモン 甚四郎ジンシロウ 弥三郎ヤサブロウ
五郎ゴロウミギ衛門エモン 次郎ジロウ タイ右衛門 三郎サブロウ右衛門
改称カイショウ 宇津ウツ
忠次チュウジ阿部アベテイ養子ヨウシとなり 天文テンモン十三13ネン
総称ソウショウ 大久保オオクボ 大久保オオクボチュウセイから阿部アベ忠政となる 三州サンシュウ 
大久保の阿部 三木ミキジョウ コウシロイクサ
ホリにて討死ウチジニ
巣鴨スガモホンミョウ 建立コンリュウ 忠俊 忠勝 康忠 
創 立:元亀二年(1572年)
   忠勝    忠政   忠吉    忠豊    忠益    忠直    忠岡    忠宗
ただかつ ただまさ ただよし ただとよ ただます ただなお ただおか ただむね
(?〜?)法名浄玄
   康忠     某    某     忠以     忠良    元政
やすただ           ただより  ただよし  もとまさ
小田原
小田原オダワラ藩主 4マン5000イシ 沼津 備後ビンゴカミ
チュウ(忠員 ナガ男 マタは オトコ チュウセイ(忠員  二男) チュウ(忠員  男) チュウタメ(忠員 ロク男) チュウナガ七男7ナンまたは八男8ナン チュウキョウ(忠員 男または男) チュウゲン男または10男)
ただよ(1532〜1594天文テンモンモト文禄ブンロク3) ただまさ(?〜?) ただすけ(1538〜1613天文テンモン6〜
(?〜?)
ジンミギ衛門エモン 彦左衛門ヒコザエモン 繭太郎
アタラ十郎ジュウロウ七郎シチロウミギ衛門エモン バイ定次サダジ養子ヨウシとなる 慶長18) 平次ヘイジ
八郎ハチロウオサム右衛門、ミチ
駿河スルガヌマハンシュなるも 戦死センシ                  
嫡子なく絶家改易 チュウセイ(二男)が養子ヨウシったため
ジュウシタ ショウスケ 相模サガミカミ ヒダリウマイン チュウクルダイハチロウ 三男3ナンまたはナン
小田原オダワラ藩主 4マン5千石センコク+2万石マンゴク 書院ショインバンカシラ(2000ゴク チュウ新蔵シンゾウ ナンまたはナン
チュウリン(忠世 長男) (1601〜1613)慶長ケイチョウ6ネン〜18年 チュウ(忠為 男) チュウカクカンロウ ナンまたは六男6ナン
ただちか(1553〜1628天文テンモン22〜寛永カンエイ5)             ただとも(15? 〜1644)                        
千丸、新十郎、ドウシロ
以後10ダイ小田原藩が明治メイジ維新イシンまでツヅ
    烏山カラスヤマ
従五位下 山城ヤマシロカミ佐渡サドカミ伊豆イズカミ
近江オウミ(1500コク+キリコメ3000コクゾウ⇒45
00コククラコメ4000加増カゾウジツコメ1500加増カゾウ
⇒1万石)
チュウタカ(忠知 長男)(イチ十郎ジュウロウ
ただたか(1619〜1702)
四代4ダイ将軍ショウグン家綱イエツナ五代5ダイ将軍ショウグン綱吉ツナヨシツカ
小姓コショウバンガシラ留守ルス御側オソバヨウジンなど
歴任レキニンし、このアイダ加増カゾウカササダテイ三年3ネン
(1686年)1万石マンゴクリョウした、元禄ゲンロク元年ガンネン
(1688年)アシイン造営ゾウエイ奉行ブギョウツトめたトコロ
建設ケンセツ材料ザイリョウに古材や朽材を使用シヨウしたために
咎められて閉門ヘイモンとなる、元禄ゲンロク十年10ネン地方チホウ
直しをうけ近江オウミ***にて1万石マンゴクリョウした
、同十二年致仕、(1725ネン下野シモツケ烏山カラスヤマ
入封し定着。
上野ウエノ大久保家オオクボケ先祖センゾ初代ショダイ
位 佐渡サドカミ ハハ 常春のツマ 老中ロウジュウ小林コバヤシムスメ
万石烏山カラスヤマ城主ジョウシュ初代ショダイ、享保十年(1725) 二千2000イシ 修理
つねはるツネハル() ただあつチュウアツ(常春男)
(?〜?) デン三郎サブロウ(1719〜1737)
栃木県那須郡烏山町の烏山城一帯は 9サイにて享保キョウホ13ネン(1728)
応永24年(1418年)、当時の那須家当主 10月26日分封寄り合いに列する
那須資重が築いた山城であり那須氏の モトフミネン(1737)9ガツ13ニチボツ18サイ
領地であった、戦国時代までは近隣の 嶺松院殿鷹覚相円大居士
宇都宮氏と所領抗争をつづけていたが 跡目アトメがいないため忠蔭の
小田原の戦いで北条の側にて参戦し
二男(方道)を養子縁組
豊臣軍と戦ったが北条氏直の降伏の
ため敗退し、秀吉により那須家は改易 ただおきチュウキョウ(忠高 男)
廃絶となる、その後、武蔵忍より成田氏 ツマ 狩野カノウ守信モリノブ探幽タンユウ)のムスメ
が下野烏山に入るが江戸期に入り嫡子 チュウカゲ(忠興 十三13男)
がなく絶家となる、常陸小張より松下重
綱が入るが陸奥二本松へ替地となる、
下野真岡より堀親義が入るが二代親昌の 二代2ダイ
ときに信濃飯田へ替地となる、三河中島 舎人
より板倉重矩(しげのり)が入るが二代 まさみちホウミチ(忠蔭二男)
重種那須福原より那須資弥が入るが二代 幼名ヨウミョウただつらチュウヌキ(1724〜1750)
資徳のときに改易となる、河内より永井 元文ゲンブン二年ニネン(1737)11ガツ2襲名シュウメイ
直敬が入るが、忠臣蔵事件の後の播磨赤 十三歳寛延カンエンネン4ガツ2ニチボツ 26サイ
穂へ転地となる、上総大多喜より稲垣重
法名ホウミョウ 院殿イントノ相関ソウカンジュン大居士
富が入るが二代照賢のときに志摩鳥羽
へ替地となりその後八代将軍吉宗の時
に近江より大久保常春が入り八代、約 三代3ダイ
二百数十年の安定期後、明治を迎える
左門サモン 
ただなおチュウナオ
(1733〜1795)
烏山ダイ 山城守  寛延カンエンネン(1737)7ガツ3襲名シュウメイ4サイ
ただたねチュウタネ(常春 長男) 寛政カンセイ7ネン6ガツ19ニチボツ 62サイ
(?〜?)
法名ユウ
西ニシマル書院ショインバン使ツカバン
ジョウトク院殿ヒロシジュウ居士
烏山三代3ダイ 伊豆守 
ただあきチュウキョウ(忠胤 男)
(?〜?)
四代4ダイ
平次郎ヘイジロウ
ただひろ忠寛タダヒロ
烏山四代ヨンダイ 山城守 (1756〜1792)
ただよしチュウゼン(忠胤 男) 寛政カンセイネン(1791)襲名シュウメイ35サイ
(?〜?)
寛政カンセイネン(1792)4ガツ6ボツ36サイ
法名天眼テンガン院殿イントノセイオボミチ居士
渡辺ワタナベナベ三郎サブロウカンツナ
オトコ養子ヨウシにする
烏山五代ゴダイ
(烏山大久保家の血脈が途絶える)
(?〜?)
ただしげチュウナリ宇都宮ウツノミヤハンヌシ 五代ゴダイ
 松平(深溝)中怒 三男)
コウ五郎ゴロウ  二千石 ソト
とくつなトクツナ(寛綱男)
(1775〜?)
烏山六代ロクダイ 佐渡サドカミ 寛政カンセイ四年4ネン(1792)7ガツ3
ただやすチュウ(忠成 ナガ男) 襲名17歳
(?〜?)
法名カツヒカリ院殿イントノオクツキミチセキ居士コジ
烏山七代ナナダイ 佐渡守 ダイ
ただよしチュウウツク(忠保 三男) シュ殿デン 二千石  外記
(?〜?)
ただたかチュウコウ
(?〜?)
吉五郎
烏山八代ハチダイ藩主ハンシュ   従五位 御使オツカバン寄合ヨリアイ
ただよりチュウジュン(忠美 長男)
法名アカツキリョウ院殿イントノトコユメオサナソラ童子ドウジ
(1857〜1914)
慶応ケイオウネンガツ幕府バクフグン大鳥オオトリ啓介ケイスケ
の宇都宮城攻撃にさいし官軍カングン 七代ナナダイ
宇都宮に援兵百十六名を派遣。     二千石 ソト
同四年六月白川口の人馬兵食 こうごろう甲五郎
賄方を役す  
同四年六月二十七日27ニチ下野シモツケ堀越ホリコシ  
に二小隊を派遣 (?〜1823)
同四年月二日堀越ホリコシから白川シラカワ  
に進軍する  
死傷者シショウシャ
 
 
法名ユウカシコ院殿徳厚ノリアツ仁海ジンカイダイ居士コジ
ダイ 子爵シシャク
ただはるチュウハル(?男)
(19?〜19?)
住所ジュウショ 東京都トウキョウト下谷シタヤ三味線シャミセンホリ
ツマ いく 仙石センゴクヒサシ ネイシツ
八代ヤツシロ
明治メイジ維新イシン     二千石 ソト
ただすけ忠資タダフミ
(?〜1920)
文久ブンキュウネン十二月12ガツ家督カトク相続ソウゾク
78サイボツ
法名ツネゼンメイ忠資居士コジ
明治メイジ以降イコウ 烏山カラスヤマケン士族シゾク
大久保オオクボ吉五郎キチゴロウ
藤原フジワラ忠資タダフミ
祖父ソフ 大久保オオクボソトトクツナ
 旧幕府 使番
チチ   大久保オオクボソト忠孝タダタカ
 旧幕府 使番
家禄カロク   2000コク
ロクゼイ   429コク
 
家臣カシン41メイ別紙ベッシ銘記メイキ
明治維新
九代9ダイ
 
きちごろう吉五郎キチゴロウ
(1903〜1981)
 
78サイボツ
法名ココロトクイン吉祥キチジョウ五郎ゴロウ居士コジ
 
妻 てる チュウムスメ 
十代10ダイ
 
ぜんのすけ善之助ゼンノスケ
(吉五郎 長男)
(1919〜1994)
妻 貞子サダコ(善之助、長女)
十一11ダイ
 
きんじろう金次郎キンジロウ
(1919〜1994)
75サイボツ
法名ミチジュン清次セイジ居士コジ
当家は今の栃木県宇都宮近郊にあった
烏山藩の初代藩主、大久保常春の次男
代(現代ゲンダイ として生まれた大久保忠篤を中興の祖に、
たかゆき孝行タカユキ 13代目大久保オオクボ孝行タカユキとして現在ゲンザイにいたる。
(金次郎 長男) 別紙ベッシ大久保オオクボ孝行タカユキ
現在ゲンザイ生存セイゾン 遍歴ヘンレキショ参照サンショウ