ダイ4ショウ
戦乱センランナカ大久保家オオクボケ
  大久保オオクボ、この地形チケイとして窪地クボチ変形ヘンケイヒサシタモつ、と縁起エンギのよい言葉コトバえたとオモわれる
此度コタビげる大久保オオクボイエとは東北トウホク那須ナスグン烏山カラスヤマ栃木県トチギケン宇都宮ウツノミヤ近郊キンコウ)にオコった豪族ゴウゾク当初トウショ
宇都ミヤ氏を名乗り近隣の豪族と土地争い、水争いなど勢力を広げるためにシノぎをケズり、この地域チイキでは
頭角を現しつつあった、1331年過ぎ鎌倉カマクラ時代末期マッキ南北朝ナンボクチョウアラソいとともに各地カクチ豪族ゴウゾクにも味方ミカタ
なるよう南北ナンボクリョウ天皇テンノウより使者シシャんだ、南朝ナンチョウ醍醐ダイゴ天皇テンノウは新田義貞をソウ大将タイショウとし、東北の諸将と
共に前北条氏を助け足利尊氏に率いられた坂東武者にて占領センリョウされた鎌倉を目指メザした。
一方イッポウ、後に足利幕府を創設するノボ朝日アサヒのような足利尊氏は西ニシ楠木クスノキ正成マサシゲとともにゼイなるも白川
上皇に味方し、各地で連戦レンセン連勝し斜陽の鎌倉カマクラ幕府の前北条氏をヤブっていった、南朝に加勢した
宇都宮秦藤は西ニシからノボる新田義貞ヨシサダし、そのオトウト脇屋ワキヤ義助ギスケ大将タイショウ副将フクショウとしてキタから関東カントウ
進み鎌倉を目指したが大軍を率いる能力に欠けた大将と各豪族の纏まりの無さに、烏合の衆にと化し
連戦連敗し鎌倉カマクラ近郊キンコウタタカっている新田ニッタ義貞ヨシサダグン加勢カセイできず南朝ナンチョウ敗北ハイボク原因ゲンインとなった、そのあとも
東北から越中、近江、美濃と転戦し負けつづけ、新田義貞がられると南朝ナンチョウグン瓦解ガカイした。
大将の新田義貞の弟、脇屋義助は四国シコクにて再起サイキハカるが簡単カンタンられてしまった
宇都ミヤシンフジとその一族イチゾク美濃ミノにて大将タイショウの義助とワカれ、東海地域の遠州三河ミカワ、現在の静岡県と愛知県の
県境近辺に流れつき三河ミカワカミ和田ワダミョウコクデラ門前モンゼンカクれるように住み着いたその秦綱−秦道
(この時に宇都宮から宇都に改名)−秦昌(この時三河の松平信光に見い出され一族と共に
松平郷に移り住み松平氏に仕える)後。しかしこのイクサ経験ケイケン松平マツダイラツカえたコトノチ大久保オオクボ
の隆盛につながっていく事になる。
  そのコロ浜名湖ハマナコからヤマハイった奥深オクブカ地域チイキヒトつの勢力セイリョクオコりつつあった、豪族ゴウゾクはその地名チメイ
とって松平氏を名乗る、豪族ゴウゾクといっても山間ヤマアイ土地トチにてらす親戚シンセキ縁者エンジャフク老若ロウニャク男女ダンジョ50スウニンほど
の一団であり日々の暮らしも貧しく各家も7、8軒くらいであった、しかし松平氏一族の頭首トウシュ三代目3ダイメ
義家の時に弟の家勝と共に勢力拡大を始める、きっかけは近郊の山辺氏に妹が嫁いでいたので
あるが、当主トウシュが病に倒れると縁戚に有力者が居ないことに目をつけ、その嫡子が幼少であることを
利用し、山辺姓を継がせず元服するまで弟の家勝を後見人として山辺に養子に出し山辺姓を継が
せた、その後数年すると松平氏と山辺氏の間に位置する後藤氏に領地の難癖をつけ、話し合いと
称し当主トウシュの後藤忠正、忠興親子をを騙し討ちしその領地を簒奪する、こうして郎党ロウトウ百名100メイえると
近郊のその他の豪族と、ある時は政略婚姻、ある時は騙し討ち、当主トウシュの闇討ちなど勢力セイリョク温存オンゾン
を図り、そして下る物は旗下に加え一族の者を当主トウシュに置き換えつつ、ソムモノ土地トチウバってから
追放し急速に勢力を伸ばしていった、やがて一族イチゾク松平マツダイラ二十20イエとなりさらに勢力を広げるため、
領地リョウチ拡大カクダイモトめて三河ミカワ一帯イッタイ勢力セイリョクばし、各地カクチシロカマえた、やがて動員ドウイン兵力ヘイリョク四千ヨンセン
超えると一族内で主家シュケアラソいがハジまり、タガいに争うようになる、最初サイショタガいの領地リョウチ権利ケンリメグ小競コゼ
合い程度であったが、その一族の中でも野望が高いと云われた松平キヨコウ(竹千代の祖父ソフアンショウキヨコウ
ともいう)は叔父の岡崎(松平)昌安の丘城安祥ヤスヨシシロ(後の岡崎城)攻略に取り掛かる。
信光も、そのコロにはチカくの豪族ゴウゾクハヤシ酒井サカイ本多氏ホンダシ、を傘下サンカクワえ、勢力セイリョク二千2000カゾえるよう
になっていたオカ山城攻略コウリャクには1538ネンよりヤク二年2ネンヨウ宇都ウツハタ昌の山中城ヤマナカジョウ攻略コウリャクをきっかけにオカジョウ
守りは瓦解し岡崎昌安が駿府の今川氏を頼り落ち延びて行く所にまで追い討ちを駆け、その室、
ワラワトモノコった一族イチゾク皆殺ミナゴロしにした。
オカジョウををホロぼした松平マツダイラ清康キヨヤス(は岡崎城と改名カイメイし)三河ミカワ一大イチダイ勢力セイリョクとなり近郊キンコウショ豪族ゴウゾクカタナラべる
までになった。
  その頃、隣国リンゴクにある東海の守護といわれた今川氏はこれを脅威と感じ松平氏の弱小化を決めた
松平清康(は近隣キンリンダイ豪族ゴウゾク小大名ショウダイミョウアラソツヅけなければならなかったが、清康キヨヤス(は強力キョウリョク家臣カシンダントモ
統制力を遺憾なく発揮し、尾張オワリイクサ天才テンサイタタえられた織田信秀さえ遠州エンシュウへの進出シンシュツ断念ダンネンせざるお
えなくなり、それどころか松平の尾張侵入を恐れたものである。
今川イマガワ松平マツダイラ伸張シンチョウオサえるために一族イチゾク中心チュウシンである清康キヨヤス(をモノにしようと、まず家老カロウ
桑名依重を今川イマガワシロヒトつとえに抱きこみ、その家臣カシントモに清康(暗殺を謀った、暗殺アンサツは実施され
清康(は自家の家老によって誅殺されてしまった、一族の中心チュウシンとなる信光ノブミツウシナった松平隆盛リュウセイキュウ 85
だったがゆえに分裂も早く、今川と織田の謀略により次々と領地を失い、武勇ブユウホコった家臣カシンダン普通フツウ
の豪族に戻るか、両家リョウケ家臣カシンとなっていった。
今川義元は松平マツダイラしむコトをたてまえに、自家ジカ家臣カシンダンクワえるタメ清康キヨヤス(の嫡マゴ、竹千代
(後の家康)が元服するまで後見人となる事を条件に、松平家の存続を認める代わりに竹千代を駿河
にて人質にしようとした、しかし駿河スルガかう竹千代一行イッコウを織田信秀がオソ見事ミゴトタケ千代チヨウバコト
成功し竹千代を尾張に連れて行き、嫡子、奇妙丸(後の信長)の傍においた、松平家マツダイラケでは今川イマガワ
命じられ竹千代の奪回をハカるるため、幾度となく織田に戦いを挑んだが戦タクみな信秀に翻弄され
その度に負け続けた、それに加え目付けの今川家臣も捕らえられる始末である、しかし何度か織田の
家臣をらえることに成功セイコウし、五年5ネンをかけた結果ケッカ織田オダ家臣カシンと今川家臣オヨび竹千代を捕虜ホリョ交換コウカン
という形で奪い返したのであるしかし度重タビカサなるイクサ松平マツダイラ家臣カシンダン経済ケイザイテキにもヒトテキにも疲弊ヒヘイした、
青年男子を戦にとられ、田畑は戦で障害を持った男と女、子供、年寄りで維持しなくてはならず
貧乏ビンボウ大名ダイミョウとしてちていったのである 、しかし最後サイゴまで松平マツダイラノコった家臣カシンダン結束ケッソクカタく、将来ショウライ
徳川トクガワイシズエとなっていくのである、そして徳川トクガワ天王テンノウばれるナカ大久保オオクボ一族イチゾクハイコトとなった。
徳川四天王といえば、酒井サカイチュウツギ本多ホンダ忠勝タダカツ井伊イイ直正ナオマサ榊原サカキバラヤスシセイわれているが、それは作家サッカ
山岡総八が自小説でいた徳川トクガワ家康イエヤスナカでのコトぎず実際に岡崎城に飾られている
四天王シテンノウ肖像画ショウゾウガには大久保忠世オオクボチュウヨハイっている、
井伊直正などは井伊イイアカソナえとはれ、こえはいいが大久保忠世のおかげで武田の家臣団を取り
込んだに過ぎず徳川家が大大名になった後に脚光をあびた武将なのである、そしてそのキュウ武田タケダ
家臣団も大久保オオクボ忠世が武田タケダ高坂コウサカ弾正ダンジョウ昌信マサノブ仲立ナカダちしてもらい山県ヤマガタハナったスエ、やっとムカイ
られた兵達なのである大久保忠世は武功ブコウオオきいためイノシシ武者ムシャなどとわれがちだが、ケッしてそのよう
な事はなくあえて知将チショウぶに相応フサワしいほど智謀チボウけていたのである、その証拠に武田氏の滅亡後
甲斐カイ経営ケイエイ織田オダ代官ダイカンである   をオトシイれるために裏から一揆を操り忙殺し、甲斐一国を徳川
の領地に編入し、信濃経営ケイエイにおいても、北信濃に上杉氏を一兵も入れず、南信濃の織田への割譲を
退け一部を真田氏に分け与える事を家康に進言し、残り全てを徳川に編入したまた駿河を北条氏から
割譲させ徳川トクガワ領地リョウチとしたのも忠世であり徳川が関が原において勝利を収めると上杉氏の佐渡金山
徳川トクガワコトを家康に耳打ちし、その経営を一手に引き受けるために当時最高の金山師と
いわれた武田の旧臣である二郎三郎を養子に迎え大久保長安とし佐渡金山から取れる莫大の金を全
徳川トクガワ幕府バクフ献上ケンジョウ徳川トクガワ三百年300ネン基礎キソとしたのも大久保忠世である。
のちに知恵チエ伊豆イズなどと講談コウダンなどでハヤされる本多ホンダ正信マサノブ正純マサズミ親子オヤコなどより企画、立案においても、
江戸城の守り口東海道の要である小田原城主として、それを実践し、隠居した家康の駿河城の後備え
警護ケイゴなどナド家康のため徳川家のため幕府のため、合戦に財政に経営に普請にと大久保一族の血
るような貢献コウケンダレにもアキらかである。
関が原に遅参した秀忠など井伊直正が後見したための失敗が数知れずその度に家康は馬鹿秀忠
にガッカリし、信長ノブナガノブチュウよりも優秀ユウシュウ嫉妬シットされ切腹させられた、長子の信康が生きていればと何度
も落涙した信康が家督を継げばその利発さと魅力により徳川幕府も早くに安定し諸国の大名も
信康だったらと平伏したであろうし、家康イエヤスも信康が生きていたならば秀頼の貫禄にも気楽に応対し
将来の徳川を心配せず、安心して信康に任せる事ができたであろうに、馬鹿秀忠と取り巻きの家臣では
徳川幕府も短命と考えた為、無理を押し通し、大阪冬の陣、夏の陣を起こし、秀頼を殺し豊臣一族
を根切りにし、徹底的テッテイテキに滅ぼさなくてはならなかった、
二代ニダイ将軍ショウグンが秀忠ではなく信康ノブヤスであったなら豊臣トヨトミを30万石位の大名で存続させられただろう